昭和44年07月02日 夜の御理解
お話しを頂く御理解を頂くというような時にゃ、本当にあのう自分が一人で、自分が頂くという気持ちで頂けと言われておりますけれども、なかなかねそれがそういう実感としてなかなか頂けない、ただ漠然として聞いておるだけ、繰り返し繰り返し頂いてもだから身に付いていない、そこで神様は個人教導と言うかね、個人教導を言わばして下さる、銘々が御神夢を頂いたり御心眼を頂いたり。またその人だけのための御理解を頂いたりするような事になって来る訳なんですけどね。
今御祈念にかかる前あの公子さんがお届けをさして貰うのに、今朝がたからそのお夢を頂いておる、バスに乗ってどこか行きよったところが、誰かその自分の肩にこうやって眠ってからもう、もうまぁどうした人じゃろうかと思いよるばってん、もういよいよ眠りに掛って来るけん、それでもうちっともやもやして来た訳ですね、で「ちょいとあなた起きて下さい」っち言うちから「あなた誰ですか」っちこうやって言うたげなら、「あんたが一番信用しとる人信用しとる人とい」っち言わっしゃたそうです。
でちょいとこう見たところが、それがなんと親先生だったとこう言う訳なんですよね。これがこの人にいたずらの一つもしてやろうというてそのう、寄り掛って来るのじゃなくてね、もう本当に神乍らにこうして眠っておられるというなら、やはりそれを黙ってこう受けて行けっていう訳なんですね、言うなら「それを親先生と思え」と、いう事は「神様と思え」と、自然の例えば成り行きを大事に受けて行くという事だという様な事はもう、それこそここの人達はどの位頂いておるか分からんのですけれども。
これは公子さん、公子さんだけに神様は教導して下さるね、そういう御理解を頂かしてもろうてまた私達も、「ほんなこてそうだな」という風にまた改めて分からして頂くようにね、どうでも一つお繰り合わせを頂いて、神様の下さることの中にゃねもう実にその、噛んで含めるように下さってあるんですよ、もう一つ頂いておられる事なんかは、あのう椛目のあの篠原さんですね、あのうあちらのまぁ中心にしたお夢を頂いておりますが、金山寺味噌を造っておられる。
だからそれに入れる例えば骨ですかね、その味噌味噌骨って言うでしょう、そういうその骨を例えば入れる御用をですね、あそこに青年会に行きよる方達が、まぁ皆んなでそのもうまぁそうならせて頂けという意味の事を頂いておりますね、金山っち言うて金の山のと書いてあるよ、なるほど金光様の信心しよってどうしてあげな事が起こったじゃろかと、例えばあそこのお父さんの場合なんかそうなんですよね。言わばある意味合いでは味噌付けたようにあるけれども。
これはもう深ぁい御神意のあっての事じゃから、普通では分からん人間では分からんのですよね、それでまぁそのう何ちゅですか、金山寺って言うのはその事のために、今非常にその問題がややこしなって、裁判にでもせなんじゃろうかと言うごたる、まぁ問題になっておるわけですね、それをまぁ金を貰うのやらん、払わんのっといった様な事らしいんですよ、だからそういう問題が本当に解決のおかげを頂く、例えば椛目での青年会が毎月行われます中に、あちらの娘さんやら息子さんやらもやって来るんですから。
もう本当にあのうその皆んなその周囲の者だけだけなっとも、その信心の骨子と言うか骨にでもなってあげれる位な、お祈り添えをさして頂いて言わば神様の御祈念が成就するような、お祈り添えをさして頂けといったような事を頂いて。もうそのままお夢の通りに頂いても、合点が行くように感で含めるようにあの教えて下さるということは、もういかに神様がね私共に縋って、「どうぞそうあってくれよ、そうしてくれよ」とこう頼んでおられるように思うんですね。
それが直接そうして頂きますと、それが実感的に頂くんですけれども、こりゃもう唯お説教を沢山のせて頂くと、それが何とはなしにこう漠然となって、それがいわゆるマンネリ化してしまって、その御理解や御理解の有り難いというものになってこない、それでは勿体無い話し、そこで神様もあの手この手を使うてね、信心を分からせよう本当な事をさせようといったような働きを、そういうね公子さんが頂いておる、御神夢の中からだけでも感じられるですね。
どうぞ。